
司馬遷が記した「史記」によると、徐福は秦の始皇帝の使いで、日本への初めての渡来人といわれています。徐福の宮の周りや波田須の里には徐福の足跡や品々がたくさん残っていて、日本各地にある徐福がたどりついたという土地のなかでも最有力だそう。徐福は熊野で暮らしたとも、新宮から船に乗って富士へ向かったともいわれていますが、あくまでも伝説で真実はわかっていません。だからこそ想像をかきたてられ、徐福伝説はいまも語り継がれているのです。


秦の始皇帝の命令によって、不老不死の仙薬を求めて日本にやってきたという徐福。彼の墓だという石碑があり、祀っているのがこの徐福の宮です。周りを樹木に囲まれた小さな鳥居と祠の宮は、地元の人たちから「徐福さん」と親しまれています。周りには徐福が中国から伝えたとされる陶器の破片が出土した「釜所」と呼ばれるものもあります。その釜所で焼かれたと思われるすり鉢が、徐福の宮のご神宝。 大船団を率いてきた徐福の渡来伝承が残るのは熊野だけでなく、全国各地20カ所以上にのぼるとか。鹿児島西岸から東北地方北部の日本海沿岸まで、広域に及ぶのはなぜでしょう?また、徐福の乗った船が熊野の新宮に流れ着いたといわれていますが、その場所ははっきりしていません。 徐福に関する謎は解き明かされてないものが多く、 ロマンを私たちに与え続けています。

司馬遷が記した「史記」によると、徐福は秦の始皇帝の使いで、日本への初めての渡来人といわれています。徐福の宮の周りや波田須の里には徐福の足跡や品々がたくさん残っていて、日本各地にある徐福がたどりついたという土地のなかでも最有力だそう。徐福は熊野で暮らしたとも、新宮から船に乗って富士へ向かったともいわれていますが、あくまでも伝説で真実はわかっていません。だからこそ想像をかきたてられ、徐福伝説はいまも語り継がれているのです。
徐福の宮がある波田須町矢賀は、新鹿湾を少し南下したところにある小さな里。「矢賀の蓬莱山」ともいわれる丸山という山があり、そのてっぺんに徐福の宮があります。こんもりとした木々に囲まれてあるのは、小さな鳥居と祠、そして徐福の墓と刻まれた石碑。参道では秦の時代の半両銭なども発見されています。
波田須の地名はもともと「秦栖」、または「秦住」と書かれ、徐福が住んだ土地とされています。熊野灘を見下ろすなだらかな丘の斜面には棚田が広がり、その間に民家がのぞく様子は、まさに日本の原風景。それを眺めていると、中国から来た徐福がこちらに腰を落ち着けたのも納得できるでしょう。
徐福の宮へは
JR熊野市駅から車で国道42号を大泊方面へ。
国道311号を波田須方面へ約30分。


徐福はもともと伝説の人物でしたが、「史記」のなかで彼に関する記述が見つかり、実在したとして最近中国では研究が盛んになっています。日本列島に点在する徐福到来伝説がある土地のなかでも、彼に関連する品々がたくさん残る波田須。自分の足で踏みしめて歩けば、新たな発見があるかも!